メニュー

●もりそば---550円
●かけそば---550円
●もりうどん---550円
●かけうどん---550円
●ごまだれうどん---750円

●天ぷら---200円
●冷奴---150円
●おしんこ---200円

●ビール---400円
●ジュース---150円
●升酒---300円

*忠次郎蔵そば店では「うどん」のある日は火曜・木曜のみです。ご注意ください。

※大盛は150円増。
※1日限定50食です。ご賞味ください。
※おみやげは2人前〜(1100円〜です)


 営業時間・地図等

 

<忠次郎蔵そば店>

〒361-0077 埼玉県行田市忍1-4-6
TEL&FAX 048-552-1010

営業時間:11時〜14時
毎週月曜定休

手打ちうどん---火曜・木曜 のみ

*1日50食限定販売です。


 そば打ち教室

  忠次郎蔵では、大人向けの教室として月に1度のペースで開催しています。
初心者コースから上級者コースまであります。
先生は普段忠次郎蔵のうどん・そばを打っている店長さんです。
食事に立ち寄るだけでなく、実際に自分たちで使うことにより、近代化遺産の素晴らしさを実感出来ることと思います。

 イベント案内
 ●これからのイベント

今後のイベントや予定は、「ぎょうだ足袋蔵ネットワーク」のページにある「予定表」でチェック出来ます。
ぜひ予定をチェックして、イベントに参加して下さい!
 

 ●これまでのイベント

  キッズ手打ちうどん教室(2004年10月開催)
子供たちにも「もの作り体験を通して忠次郎蔵に親しんでもらいたい」と小学生向けに「キッズ手打ちうどん教室」を開催しました。
親に付添ってもらい、慣れないうどん打ちに大奮闘!

 忠次郎蔵について 行田市初の国登録有形文化財〜旧小川忠次郎商店店舗及び主屋
 ●甦った「忠次郎蔵」
 「忠次郎蔵」こと「旧小川忠次郎(きゅうおがわちゅうじろう)商店の店舗及び主屋」は、行田市内では現在5棟だけとなった本格的な蔵造りの店舗(店蔵)ですが、昭和50年代半ばから住む人も居なくなり、長い眠りについていました。
 やがて時代は昭和から平成へと変わり、バブル経済による地上げとスクラップ&ビルトの無秩序なまちづくりが、“まちの歴史の記憶喪失”を各地で引き起こしましたが、幸いにも歴史ある行田市ではその被害は少なく、この建物も取り壊されることなく残りました。
 平成14年になって、歴史的建造物の再生・活用を通じて中心市街地のにぎわい創出を考えていた行田商工会議所がこの「忠次郎蔵」に注目し、翌年「蔵再生にぎわい創出事業委員会」を組織、行田市の補助を受けて建物の改修、整備を始めました。
 平成16年3月には「蔵再生にぎわい創出事業委員会」のメンバーが中心となって、NPO法人「ぎょうだ足袋蔵ネットワーク」が設立され、この建物を「忠次郎蔵」と命名、その管理・運営を行うとともに、市内に点在する足袋蔵等の有効活用を核とした地域に根ざしたまちづくりの提案、推進に動き出しました。
 また、行田市教育委員会もこの建物の歴史的価値を認識し、国へ登録文化財の申請を行いました。その結果にこの建物は、行田市の足袋産業全盛期を象徴する建物のひとつとして、平成16年6月18日に国の登録文化財(建造物)に登録されることが決まりました。
 そして平成16年7月7日にはすべての整備が完了し、この建物はNPO法人「ぎょうだ足袋蔵ネットワーク」の事務所及び催事施設、そば・うどん専門店「忠次郎蔵」として甦りました。

 ●小川忠次郎商店と「忠次郎蔵」のあゆみ
 この「忠次郎蔵」の建物は、足袋の原料を商っていた小川忠次郎商店の店舗及び主屋として大正13年(1924)頃から建設が始められた、行田の足袋蔵産業隆盛期を象徴する建物のひとつです。
 棟札によると谷郷の大工棟梁の大橋角次郎、行田向吹(天満)の左官の久保秋八五郎、忍仲町(下町)の鳶頭の河野久平らの手によって建設が行われ、大正14年(1925)11月7日の棟上式を経て、昭和4年(1929)頃には建設が完成したと伝えられています。
 小川忠次郎商店は、この「忠次郎蔵」を建てた小川忠次郎(敬称略)が代で築き上げた商店で、彼の死去とともに閉店しています。では、この「忠次郎蔵」を建てた小川忠次郎とは、いったいどのような人物だったのでしょうか?
 小川忠次郎は、明治18年(1888)に現在の群馬県大田市に小川弥五郎の次男として生まれました。成長した忠次郎は独立して行田に移り、わずか15円の資金で明治40年(1907)に魚商を始めました。
 やがて忠次郎は当時行田で日の出の勢いで発展していた足袋産業に注目し、谷郷出身の妻(田高)まさの実家の支援を得て、大正9年(1920)に足袋原料問屋田小川忠次郎商店を開業しました。商才に恵まれた忠次郎は商売を成功させ、瞬く間に財を蓄えました。
 その頃この「忠次郎蔵」のやや南の北谷通りに、牧野本店が新しい店蔵を建設しました。その蔵造りの立派な店舗を見た忠次郎は、自分も蔵造りの立派な店舗を建てようと決意し、この「忠次郎蔵」を建設したのです。
 こうして建てられたこの「忠次郎蔵」は、蓮華寺通りに東面して店蔵の店舗が建ち、その西側に主屋が接続する構造で、店舗部分は切妻造、土蔵造の2階建となっています。一方主屋部分は寄棟造、2階建て、北面と西面の壁を漆喰で塗り込めた、行田特有の北風を意識した防火的なつくりとなっています。内部1階は店舗部分の土間をもつミセから主屋部分のナカノマ、オクへと縦1列に並べる間取りで、2階に格式の高い座敷を設けています。こうした構造は、他の明治・大正期の行田の店蔵にも共通するものです。
 「忠次郎蔵」完成後も忠次郎は商売を発展させ、行田足袋原料問屋組合の役員なども務めるようになりました。一方株取引などにも手を広げ、戦後は地方競馬の馬主にもなっています(時折この「忠次郎蔵」の庭先に競走馬が繋がれていたそうです)。また、戦後は新田開発を行って自ら農作業も行うようになり、晩年はそれがひとつの楽しみでもあったようです。このように多彩な活動を続けた忠次郎でしたが、昭和44年(1969)、81歳でその波瀾万丈な人生に幕を下ろしました。
 晩年を知る人の話では、お祭りが好きな古風で頑固一徹な老人であったとのことですが、それは多彩な人生を自らの腕一本で切り開いて成功した忠次郎らしい誇り高い人生の終焉の姿であったように思えます。
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